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作 家 達 の 最 期
(樋口一葉・夏目漱石石川啄木宮沢賢治永井荷風

明治から昭和にかけて多くの作家が若くして亡くなっています。ここではそういった作家の最期の状況を掲載します。当時=不治の病「結核」や繊細な神経からくる胃病が多くみられるのが特徴です。


 
- 樋 口 一 葉 -

の頃からひどく肩の凝ることがあり、ひどいと文鎮で殴っても痛みを感じなかったという。ある時医師にそれを見せると「これは外に出ればよいが、下へ降りると命に関わることになるかもしれない」といわれたがさして気にもとめなかった。しかし25の春頃から咽喉がむやみに腫れてきた。一葉は風邪をひいた思ったがそれにしては治りが遅く、肩の凝りは背部へまわっていた。まもなく39度の熱を出すようになり診断の結果、肺結核でしかもかなりの重症でもはや絶望的状況であった。明治29年9月に入ると一時小康状態を保ち来客があると起きて会った。しかし11月になると寝起きもままならなくなり、ある朝、妹邦子に枕の向きをかえてもらった。そばには母親も付き添っていたが2人とも一葉が息を引き取ったことには気付かなかった。
明治29年11月23日、享年25であった。


- 夏 目 漱 石 -

治43年8月、伊豆修善寺で人事不省となるほどの大吐血の後、一進一退する胃潰瘍を抱えながら作品を発表し続けていたが、糖尿病でもあると診断され食事療法につとめながら「明暗」の執筆を開始した。ノイローゼ状態に陥ることもあり11月下旬以降胃の具合は悪化の一途をたどっていった。12月になると、心臓が弱まり、脈もかすかになり8日にはほぼ絶望となった。9日になると次々と親戚、知人、門下生らが駆けつけ、学校に行っていた子供達も次々に帰宅した。長女筆子を迎えに行った人力車は、途中大隅邸のところで転倒し筆子は人力車の幌を破り走って帰ってきた。子供達は、瀕死の病人の写真を撮ると治るというから、と鏡子夫人に頼み東京朝日新聞の写真部員が窓からマグネシウムをたかずに撮影した。午後12時30分完全に危篤状態となったが、食塩注射をするとまた目を開き「何か食べたい」というので、赤酒を一匙与えると「うまい」といった。やがて午後6時すぎ、ひどく苦しみ始め「水をかけてくれ」といって呻き、看護婦が水を含んで吹きかけると「よし」といったきり完全に意識を失った。そして午後6時45分、医師によって臨終が告げられた。森田草平の発案でデスマスクが取られ、のち解剖に付された。
明治43年12月9日、享年49であった。脳と胃がアルコール漬けにされ保管されている。


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- 石 川 啄 木 -

治45年4月13日早朝3時を少し過ぎた頃だった。若き詩人若山牧水は石川啄木の妻節子からの使いに起こされた。啄木が危篤だという。急いで啄木宅へ向かうと、枯れ木のようにやせ衰えた啄木の姿があった。節子は「夜中の3時頃、にわかに起こされたらビッショリ汗だらけでひどく息切れいていたので夜明けを待ち使いをよこした」と昨夜の様子を伝え何度も「若山さんがいらっしゃいましたよ」と啄木に大きな声で呼びかけた。啄木はやっと目をあけ、「わかっているよ」とかすかに笑った。寝床のそばには一人の若者がいたが節子の紹介で友人金田一京介とわかった。しばらくするうち啄木はにわかに元気を取り戻し呟くようにしゃべりだした。それをみて安心した金田一は帰っていった。節子もやっと枕元を離れた。しかしものの数分もたたないうちに啄木の容態は急変し、瞳がぼうとあやしくなった。牧水はあわてて節子を呼んだがすでに昏睡状態に入ってしまっていた。牧水は啄木長女がいないことに気付き外へ捜しに行く。門口で遊んでいた長女京子を抱いて戻ってくると啄木の父一禎は「もうだめです。臨終です」といい、そこにあった置時計を手にして「9時半か・・」と呟いた。
明治45年4月13日、享年27であった。


- 宮 沢 賢 治 -

正15年、農学校教師をやめ荒れ地を開墾し農民に農事指導で奔走し40日におよぶひでりや風雨に傾状する稲の手当に駆け回って発熱、あれから2年余りの病床生活から、ようやく小康を得た昭和6年2月、肥料の石灰の製造販売、東北砕石工場の仕事に関わり半年、また発熱病臥の身になっている今、賢治は夜露に濡れながら祭りの御輿を神社へ還御し拝んだ。「夜露がきついんじゃ。早よう入って休ませ」と母が心配したとおり、翌20日朝、容態は一変し、熱は上がり顔面蒼白だった。主治医は急性肺炎、絶対安静を命じる。夜、農家の人が作物のことで相談にきた。家人は病態を案じて断ろうとしたが、一応伝えると「大事なことだから」と丁寧に身を正し、話を聞き、ていねいに説明した。翌21日、素人目にはさし迫って見えなかった。午前11時半、突然「南妙法蓮華経」と唱題する声がし、家の者が急いで2階に駆け上がると、賢治はおびただしく喀血し、ぬぐいきれない血が青白い頬に残っている。遺言なのか父に、法華経を千部作り知己のものにあげるよう伝えた。静かに休むよう母を残し皆は下へ降りた。母がまわりを片づけていると「おかあさん、水をください」と吸い口の水をもらうと「ああいい気持ちだ」そう言って、枕元のオキシフルを消毒綿にひたして指をふき、手をふいた。「賢さ、ゆっくりお休み」と母は立って行こうとしたが、賢治の呼吸がいつもとちがい、潮が引くように遠のく。母は枕元へとって返した。賢治の手から消毒綿がポロリと落ちた。午後1時半である。
昭和8年9月21日享年37であった。


- 永 井 荷 風 -

和34年3月1日、日記(断腸亭日乗)以外ほとんど筆を執ることもなく知己と交わることもなくなった荷風はいつものように仲見世通り裏の「アリゾナ」で食事中に体調が悪くなり、店を出て路上で転倒した。その日以降浅草に通うことなく住まいのある市川の京成八幡で終日病床に臥して蟄居した。4月30日手伝い婦として通っていたトヨは、書斎に声をかけたが返事がない。不審に思って書斎の襖を開けてみると、上半身を布団から乗り出しうつ伏せの状態でこと切れた荷風の姿があった。そのときの服装は、紺の背広に焦げ茶のズボン、首には茶色のマフラーが巻かれたままであった。吐血の跡がみられた。死因は胃潰瘍の吐血による心臓麻痺と診断された。荷風には相当の財産があったが、健康に見合った食事をとることもなく、入院して治療に専念することもなく、あえてそうしなかった(若い頃の彼は病気に対してきわめて神経質だったという)。友人佐藤春夫は、荷風の死を一種の自殺だとみなした。
昭和34年4月30日、享年79であった。


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- 新人物往来社/歴史読本スペシャル(特別増刊第32巻第10号)臨終の日本史その死の瞬間 -

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