将軍の骨

徳川将軍家の菩提寺、東京芝増上寺にて、昭和33年7月から35年1月にかけて戦災で荒廃した将軍家の墓の改葬が行われました。その際、遺体調査を担当した著者による「骨は語る-徳川将軍・大名家の人びと/ 鈴木 尚/ 東京大学出版」から引用させていただいたものです。

増上寺には、2代秀忠、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂の6人の将軍と3代家光の子で4代と5代将軍の兄弟である綱重、各代の正室、側室など多くの将軍家に連なる人々が埋葬されています。

2代秀忠、7代家継は保存状態が悪く、2代秀忠は棺の上の石等の重みで薄く圧縮されており、頭蓋の正常な形を留めておらず、7代家継は棺内に水が入った為、ほとんど骨格すら残っていない状態でした。そのためここでは、6代家宣、9代家重、12代家慶、14代家茂、また有名な皇女和宮の骨、及び復元図を紹介します。

”復元図に関しては、本の学術的なものをベースに私なりに復元像を描いてみました”。

●6代将軍・徳川家宣 / 1662-1712

将軍就任が、48歳で歴代最高齢。就任早々前将軍-綱吉の「生類憐れみの令」を廃止し、新井白石、間部詮房らのブレーンらによる仁政をめざす「正徳の治」を行いました。性格的には剛勇聡明である反面、短慮であったとあります。在位期間は短く、政治の実行力は発揮できませんでした。

わずかばかり軟部のある不完全なミイラ状でした。四肢骨からの推算で身長160cm。 かなりの猫背であったようです。顔には不精ひげが生えており、おそらく発病以来病の床にあり、ひげがのび放題だったと想像されます。


●9代将軍・徳川家重 / 1711-1761

幼い頃から病弱で言語障害があり、治世力が危ぶまれたため、幕閣からは弟達(田安宗武、一橋宗尹)を望む声もありました。しかし父吉宗の「長幼の序」という大儀から長男である家重が就任。言葉がまともにしゃべられず、聞き分けられるものは側用人の大岡忠光のみで政治への関心も薄く治世力はほとんどなく老中等にまかせきりだったようです。

遺体はほとんど白骨化していましたが、保存状態は良かったようです。四肢骨からの推算で身長156.3cm。よく保存された頭髪は正しく髷が結われていましたが、頭頂部に全く生毛の痕跡がないことから禿ていたと思われます。


●12代将軍・徳川家慶 / 1793-1853

将軍在位最長の家斉の子であったため将軍就任は45歳でした。就任後も父家斉による「大御所」政治が家斉が没するまで続いており、執政は老中水野忠邦にまかせきりだったようです。性格は穏和でしたが、決断力に欠ける面があり権威低下の一因にもなりました。

遺体から特徴のある体型と容貌をもっていたことがわかります。四肢骨からの推算で身長154.4cm。身長は当時の庶民の平均身長(157.1cm)より低いのですが、頭は異常に大きく、辛うじて6頭身に達したかどうか疑われるほどでした。また口は受け口でとがった長い顎をもっていました。


●14代将軍・徳川家茂 / 1846-1866

ペリー来航により情勢が緊迫したなか、権威復活の切り札として家斉の血筋を引く紀伊家から将軍に就任しました。聡明で政治にも関心が強かったようですが、「安政の大獄」により幕府の権威は失墜したため、公武合体による権威復活をめざし、孝明天皇の妹和宮と結婚しました。しかし長州再征のため大阪城の滞在中に20歳の若さで急逝してしまいました。

遺体の軟部はすべて失われていましたが、頭髪は完全に保存されており、 四肢骨からの推算で身長156.6cm。特徴としては当時の庶民にはほとんど例をみない、かなり細長い顔をしていました。また鼻も例をみないほど高く、歯はかなりの反っ歯でした。


●14代将軍正室静寛院・皇女和宮 / 1846-1877

幕府との公武合体政策により、有栖川宮熾仁親王との婚約を解消し将軍徳川家茂のもとに嫁ぎました。夷人の住む江戸での武家生活に不安を持ち、不本意での結婚でしたが、年も近く思いやりのある家茂とはすぐに打ち解け、その後4年間仲むつまじかったようです。家茂死去後は剃髪し静寛院宮となり、明治10年箱根で療養中に亡くなりました。

四肢骨からの推算で身長143.4cm。当時の庶民よりもかなり低い女性でした。遺体の前腕の所に1枚のガラス板が発見されましたが、重要視せず研究室で整理の為、光にすかした所、長袴の直垂に立烏帽子をつけた若い男子の湿板写真でした。翌日再度見たところ、膜面が消えただのガラス板になっており、おそらく唯一の14代家茂の肖像写真だったのではと思われます。

参考文献
骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと/鈴木尚/著 東京大学出版会 | 図説江戸の人物254 / 学習研究社